林 弘康
1975年、岐阜県生まれ。加工はしない、撮影には壊れかけのカメラ、調子の悪いカメラを好んで用いるなど、人間の主体的な決定では届かない世界へと写真でフォーカスしている。撮ろうとするのではなく「撮らされる写真家」として、ただいま岐阜と沖縄を往復しながら写真生活の日々を送っている。
解説 岩田 和憲
キリスト教哲学では、心を持っているのは人間だけです。仏教哲学では、動物も心を持っています。法華経思想や金春流能楽になると、さらに植物も心を持つと考えられます。きわめつけは幼児の絵本世界で、そこでは野菜も風も便器も、すべてのものが心を持ち、歌ったり泣いたりします。感覚がほとんど無限に拡張されていきます。

幼児の世界では何が起きているのか?
面白いことに、遊びに夢中になっている子どもの脳では、LSDみたいなドラッグをやったときと同じ成分の分泌があるそうです。幼児は遊びを決してやめようとしない。世界をそういうものとして体験しているから、やめる理由がない。
こういう世界では光と色が渦巻き、野菜も風も便器もしたたかに生きています。それが、人間が生まれ、その最初期に直感してしまう世界です。
果たして、これは現実なのか、幻想なのか?

林弘康の写真は、こうしたアニミズムの世界に溶け込んでいきます。時々刻々と変わる光を、世界はまるでドラッグのように受け、木々も水滴もアスファルトも騒ぎ始める。そこでは光が一瞬にしてモノに憑依していきます。

石や水滴。本当は心なんて持っていない物質、死体なのですが、光の憑依によって動き出す。裏を返せば、人間も本当は心なんて持っていないのかもしれない。死体にすぎない。でもそうした憑依を受け、自分が生きていると勘違いしながら僕らは存在を夢見しているだけなのかもしれない。
これが世界というものについて考えるときの、恐さ、ヤバさ、深さです。

作家のオルダス・ハクスリーは、メスカリン体験によって世界をリアルに幻視します。
ハクスリーによれば、脳というものは、世界を積極的に知覚するものではなくて、世界がそのまま知覚されると危険なので、人間社会を維持するためにもむしろ制御弁として機能している。メスカリンをやると、この制御弁が門を開く。幼児の状態になる。世界がそのままの姿でどんどん脳に入ってくる。ハクスリーはいつもの庭を散歩しながら、そこに眩しいほどに光が煌めき、色が生き生きと浮き上がり、植物たちがざわめいている庭を見出します。ハクスリーは「世界は本来こういうものであり、こういうものとして今も目の前にあるのだが、通常の人間はそれを見ることができなくなっているのではないか?」と問います。

空海は室戸岬の明けの明星に悟り、スピルバーグは「私の見る夢はすべてハイビジョンテクニカラー」だと言う。ドロシーは虹を超え、ゴッホは一説には絵をデフォルメして描いたのではなく見たままを描いたのだと言われる。ガウディやフンデルトヴァッサーのうねり溢れる色満ちた建築は何なのか? 数学者岡潔が指摘する、夕陽を受けて光る木枝の情緒とは何なのか? 太陽を浴びクリーム色に溶けゆくモネのルーアン大聖堂は? 宮崎駿の映画はどうしてキラキラ光りうねる森で決定的なことが起きるのか? そしてアルマーニのいうラグジュアリーの概念とは?
「ラグジュアリーという言葉が氾濫しているが、今のモード界にラグジュアリーと呼べるようなものなんてほとんどない。ラグジュアリーとは、それほど難しいものだ」
すべて、彼らは、本当の現実という、同じものについて語ろうとしています。
果たしてそれが本当に現実なのか、それとも幻想なのか。そういう問題を超えて一つの客観的事実があるとしたら、こうしたビジョンを見た人間がある一定数いて、それは幼児のまっさらな世界観と同型の軌道を描いているということです。

林の写真は、この軌道に入っていきます。
「小我からくるものは醜悪さだけなんです。とうてい君子とはいえない。小人にはいるでしょう」
岡潔がそう言ってピカソを否定したように、我はこの軌道をそらしてしまう。
林は自分のエゴや個性で写真を撮ることを避けます。
そのやりかたは徹底的です。
トリミングしない。撮影後の加工はしない。ズームする意識もないのでズームレンズも使わない。カメラは普通に持ったら横になる。だからほとんどの写真が横構図。壊れかけの安いカメラを好んで使う。駄々を捏ねレンズが立ち上がらないときは、どんなに自分ではいい瞬間だと思っても、自分の意識ではなくカメラの意識に従う。すべて、自分を超えて存在するモノたちの声を聞き入れる。きわめてロジカルに。

こうして写真は、最初期の世界に向っていきます。そして途方もなく古い記憶を持った現実を引っ張り出そうとしてくる。
例えば竹富島フェリー乗り場の写真では、カメラを向ける林の存在に大人は誰一人、気づくことができません。でも子どもはみんな知覚します。
最後の写真では、天国というのは空の上(垂直性)にあるのではなく元々は地平線向こう(水平性)にあるという、そんな古層の宇宙観が危ういほどの色彩で出現してきます。
そんな動きが溢れるように出てくる。アルマーニがあれほど求めたラグジュアリーの正体に、林の写真はいともあっさり、ボロカメラで触れていきます。

ここに掲載した写真はすべて林弘康という、稀有なスタイルを持ったフォトグラファーによる、沖縄をめぐる写真です。タイトルの「南へ」は、僕、岩田がつけました。結果的に南へ、南へと彼が向かうのには、こうした話と関係があると思ったからです。
日本の土着民のルーツは南方からやってきたと言われています。南方から来た人たちの文化は、自然やモノを自分たちに都合よく捻じ曲げて利用するのではなく、自然やモノの動きに合わせて自分を動かしていく文化です。太平洋戦争で南洋から帰還してきた兵隊たちは、戦後も、南洋へ帰りたがる人が多かったといいます。沖縄戦へ出征した僕の爺ちゃんもそうでした。

「南へ」は、人間と世界を深く眺めるための実験です。アルマーニがあれほど探し求めているラグジュアリーの正体を、日本人の僕たちはあっさり言いのけることができるのではないか。そんな確信を持っての実験です。欧米人はラグジュアリーを希求しますが、日本人はすでに知っている。深い場所にあると同時に、一方では表面に、目の前に浮き出ています。ラグジュアリーは失われたのではなく、見失われているだけです。目の前にある。ただそこにカメラが向いていればいい。それを決定的なカタチで示すための、「南へ」なのです。
洋上
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沖縄本島 米軍基地近く
2012/8/29
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石垣島
2014/8/25
沖縄本島 首里城
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竹富島沖合
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竹富島 フェリー乗り場
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波照間島
2014/8/27
波照間島
2014/8/27
波照間島
2014/8/27
石垣島
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石垣島平久保
2014/8/26
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2014/8/26