大西 暢夫(以下、大西)
ありがとうございました、今日は。
岩田
いや、こちらこそ、ほんとに。
大西
どうでしたか、映画は?
岩田
すごかったです。すべての人が見るべき映画だと思います。
大西
(笑)
岩田
大西さんの作品、最初、絵本の「ぶた にく」を読んだんです。
これはちょっとすごいなあと。
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ぶた にく(幻冬舎エデュケーション)
鹿児島の障害者授産施設を舞台に、ブタの出産、成長から、屠畜場で殺され精肉となるまでをルポした写真絵本。
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大西
ブルーな話になる、だんだん。
岩田
意識されてないというか、無視されてる世界ですよね。
大西
「あっ、かわいいブタちゃん」って言って読んでたら、だんだん子どもの顔色が変わってくる(笑)。
岩田
そういえばあの、僕もこのあいだ、もうすぐ4年目というときに震災の、東松島行ったんですね。
大西
3月11日ごろ?
© 大西暢夫
岩田
えっとー。2月末に行ったんですよ。
大西
ああー。ほんとですか。
岩田
石巻へ行って、南相馬まで行って、2泊3日で。なんとか会社のお休み取って行ってきたんですけど。
大西
あっ、そうですか。
ちょうどその3月11日近辺は僕も東松島にいたんですよ。
岩田
あっ、そうなんですか。
それ行って少ししたあとに一川さん(※1)から、ほんと何年ぶりかに連絡があって、久しぶりに会おうよってなって。会ったら大西さんの話が出てきて、ずっと大西さんは津波の現場へ行って、新聞でも連載したんだよっていう話を聞いて。
※1:一川さん … 岐阜新聞論説委員の一川哲志さん。
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大西
ああー。もうだいぶ前ですけどね。
岩田
このタイミングでその話が僕の耳に入ってきたのは、なんかの縁なのかなあと思って。
さっそく大西さんの本をいろいろ読みまして
© 大西暢夫
大西
ありがとうございます。
岩田
いや、あの本もすごかった。
大西
「津波の夜に」?
岩田
はい。
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津波の夜に 3.11の記憶(小学館)
宮城県東松島市、鳴瀬川河口の地区に絞り、被災者35人を取材。津波が襲った3月11日、同じ現場の同じ夜を35人の視点を通して克明に記録し、震災の生々しい現実を立ちあがらせた本。
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大西
大変ですよ。
岩田
ああいう本を読んでしまうと、僕も今までのようには生きられなくなるんで。もう、どうしようかと(笑)
一川さんは「あれ、大西さんは趣味でやってるんですよ」って言うんですよ。
大西
まあ、趣味みたいなもんですね。
岩田
でも実際あっちへ行って、ツラかったんですよね。
なんでこんなところでカメラもってやらなきゃいけないんだって。
大西
そうですよ。だって、あんな状態だし。
まあもちろん趣味だけではないですけど。僕も写真で飯を食ってる人間ですから。
だけど東北については、お金に変えてないっていうだけですね。
岩田
らしいですね。それも聞いて、泣きそうになりました。
© 大西暢夫
大西
お金を回転させているっていう状態ですね。自転車操業で。
東北以外には誰のところにもギャランティーは落ちない。それを回転させる。システムってほどではないですけど、自分でやってるだけですけどね。
東北に関してはそれですね。
岩田
そのシステムっていうのは、寄付金の話ですよね。
大西
そうです。
あのー、一川さんから聞いてると思うんですけど、一川さんもよく参加してくれるし、報告会をずーっと池田町でやってて。
このあいだ15回目の報告会が終わって。で、毎回、入場料を取ってるんですよね。入場料を取っての2時間ぐらいのイベントで。
岩田
報告会っていうのは映像も見せるのですか。
大西
そうですね。最初は写真だったんですけども、9回目からは映像も見せるようになって。2、30分のもの、いわゆる短編ですね。毎回、今現在のリアルタイムの映像を見せていく。ときには映っている被災地の人をゲストに呼んで。
そういうことをやってるもんですから、まあ、ニュース報道ももちろん間違いはないんだけれども、もっともっとピンポイントの話、もっともっと小さな話、見えない小さな話っていうのを、こう、増幅させてる会なんですけども。
岩田
うん。
© 大西暢夫
大西
今は取材は東松島だけに限定してるんですね。
前は全域だったんですけど。茨城から岩手県と青森県の県境まで。
岩田
最初はぜんぶ回ってったんですね。
大西
それを岐阜新聞で連載をやって。
それから東松島にも縁があって、そこにずっと定住するようになったんです。
そこで映像を収めて、それがたまったので映画にしようっていうプロジェクトを今始めてまして。
岩田
たしか編集中でしたっけ?
大西
編集中で。ぜんぶ技術的作業を自分一人でやってるんだけど、かなり限界を感じてて。技術がないから。どっかにプロが入らないといけなくて。編集はプロが入るべきだなあと思ってるんです。
岩田
奇しくも水の話が続きますよね。ダムの話と津波の話と。
大西
まあ、ぜんぜん内容は違いますけどね。
岩田
こういう道をいつから歩かれようと、腹括ったんですか?
© 大西暢夫
大西
腹括ったっていうか、この仕事は、完全に独立して始めたのは27歳ぐらいからで。フリーになって20年ですけど。前は本橋(※2)と一緒にやってたので、
※2:本橋 … 写真家・映画監督の本橋成一さんのこと。
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岩田
あのー、スチールカメラマンとして付いてったり、アシスタントで?
大西
そうですね。このビル(※3)の7階にいたので。
本橋とはこのビル立ちあげのころからの付き合いで。この映画館の立ち上げもやったので。
フリーとして独立したのは20年前ですね。
※3:このビル … 本橋さんが所有する、東京は東中野にあるポレポレ坐ビルのこと。地下には映画館「ポレポレ東中野」がある。
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岩田
本橋さんのもとに入ったのが、この道に入った最初のきっかけなんですか。
大西
そうですね。
横浜の写真学校へ行ってて。
卒業するころに、本橋さんのところに行きたいと思って頭下げに行ったら、そのまま「遊びに来い」っていう話になって。そのままずるずるときて、ずるずるとやって。
そういうのが7年ぐらいあって、で、「ナージャの村」っていう映画のスチールやったのを最後にやめたんですけどね。
やめてもこうやって関わりはずっとあるんですけども。
岩田
なんで本橋さんを選ばれたんですか。
© 大西暢夫
大西
僕はやっぱり本橋の写真が好きだったんですよ。
今でも嫌いじゃないし。
人間としてはどうかわかんないけども(笑)、
岩田
(笑)
大西
写真家としてはやっぱりね、すごくいいカメラマンですよね。
岩田
見てびっくりしました。
大西
で、そういう仕事を僕もしたいと思ってたので。
要するに、作家志向が強かったと思うんですけど。
まあカメラマンとか適当に言ってますけど、どっちでもいいので、作家とかそういうプライドはなんもないから。
で、あのー、岐阜にいたら、カメラマンだと岐阜新聞に勤めるしかないじゃないですか。あれにはなりたくないと思ったので。
岩田
なんてこと言うんですか(笑)
大西
(笑)ていうかやっぱりね、自分の好きな写真を撮りたかったんで。
頼まれる仕事っていうのは、あまり興味がなかったっていうか。
岩田
一貫してますね。
大西
わがままっちゃあ、わがままなんですけど。
なので、喰えない路線、まっしぐらですよね。