溶け込む個性派
Polpetta(ポルペッタ)。華やかなデザインで人気のシューズブランドですが、誰がこの靴をデザインしているかはこれまで秘密にされてきました。
山崎学人さん。ポルペッタのデザイナーとして名前を出すのは、今回が初めてです。
大胆な素材遣い。古着のリユース。騙し絵。シャレの利いたモチーフ。
山崎さんの自在なイメージ力は、強い存在感を持ちながら、実はその主眼を「全体に溶け込むデザイン」に置かれています。
靴を、それ以外のモノとの関係性において考える。そしてそれは、個性を殺すこととは真逆なのです。
「遊び」をキーワードに、その視点に至るまでのお話を伺ってきました。
岩田 和憲
山崎 学人(やまざき がくと)さんのプロフィール

1969年、東京都出身。
93年、イタリアへ渡りフィレンツェで靴作りを学ぶ。
2000年、有限会社Geeを設立。イタリア・日本間を往復しながらさまざまな靴の企画を手がけ、04年にはシチリアの靴ブランド「bid handmade」にコラボ参加。05年には自身のレディースシューズブランド「amanita paradiso」を立ち上げる。
13年春夏、満を持しメンズのローファーブランド、ポルペッタ設立。ファッション界の注目を集める。
山崎 学人(以下、山崎)
このポルペッタを始めるまでに、いろいろなことがあったんですけど、そこに至るまでの過程でたぶん欠かせないのが、あれはもう僕が、38か39か。
そのときに、ピエロっていうイタリア人をある友だちから紹介されて。
彼がちょうど靴のブランドを立ち上げたばかりで、ビッドハンドメイドっていう。そこで僕も一緒に。

岩田
イタリアで?

山崎
イタリアのシシリア島で。 彼の家は、お父さんの代からシシリアのパレルモでスタートした靴屋なんですけど、そのころ、中国人がイタリアに大量に入ってきたわけですよ。なんていうんですかね、仕事の手として。
岩田
職人さんとしてですね。

山崎
これは合法なのか違法なのかわかんないんですけど。
彼のところはもともと靴屋としてスタートしたんですけど、そのころになるともう仕事がなくて、お父さんの跡を継いで下請け工場をやってたんですよ。で、イタリアも南の方となると仕事がないんで工賃も安く叩かれるわけです。そこに中国人が入ってきたんで、どんどん安く、安く。そんなふうで、また仕事をなくすわけです。
「こんなんじゃやってられない」っていうことで、彼は独立というか、今までやってた工場をやめる。残った機械で自分に何ができるかって考えて。
そこでサンダルをメインとした靴を作り始めたんですね。
で、僕も、ある友だちから紹介されて、会った瞬間に、まあ、靴もそうだったんですけど、人間的にすごい魅力のある人だったので、是非一緒にやりたいと。

岩田
どんな人なんですか?

山崎
言ってみたら、大きな子どもみたいな。
その彼が、かなり遊び心の効いてる男で。靴もそうなんだけど、例えばこんなふうにポルペッタでやってるキャンバスの見せ方みたいな類のことを、簡単に実行する男だったんですね。
岩田
発想が行動に直結するんですね。

山崎
そうそう。
最初会った時、彼、麻の袋を持って僕の前に現れたんです。拡げると細長になる麻の袋。で、バサーって拡げたら、中にポケットがついてて、そこにサンダルが入ってたんですよ。その見せ方がすごい鮮やかで。
で、この人と一緒に仕事がしてみたいなと思って。

岩田
何年くらいのことですか?

山崎
あれは、2004年ですね。 で、3年間、6シーズンくらいパレルモと日本を行き来しながら、企画してたんです。 パレルモでもモンデッロっていう海に近いところだったんで、例えば、夕方まで仕事してそのまま海へ行く。男2人、海で泳いだあとはビール飲みましょう、みたいな。

岩田
豊かですね。
山崎
すごいいい時間だったんですけど、その彼が突然、亡くなるんですよ。
それも初めての大きな展示会、「ホワイト(※1)っていう展示会に出よう」って約束をしてる時で。
※1:ホワイト … 毎年2回春と秋にミラノ市トルトーナ地区で行われるファッション・アパレル系の展示会「White Milano Show」のこと。来場者は約1万人。
それまでにいろんなファンがついてきてたんで、じゃあホワイトに出ようって。
最初は、革に穴をあけて紐通して完成、みたいなサンダルだったのが、最終的にすごいもの、まあ、彼だからこそできるサンダルにまで仕上がってたんです。
「これから新しいスタートだ」みたいに2人で言ってたんですけど、その展示会が開催される10日くらい前に、脳に血が詰まって倒れて、亡くなっちゃったんです。
その展示会は予想以上の大盛況だったんですよ。まあでも、彼がいない展示会なんで、一方でお葬式みたいで、結局工場もなくなり。
僕はそのころ、そのビッドハンドメイドのほかに、自分のオリジナルをやってたんですけど、結局、そうやって彼と遊びながらやってきたことが、ポルペッタの原点になってるのは確かなんですよ。

岩田
そのころはレディースの靴を?

山崎
そうですね。 彼はメンズもやってたんですけど、それでもレディースのほうが強かったですね。
岩田
ふん。

山崎
そのころはメンズというものをあまり意識してなかったんですけど。
今ポルペッタで使ってる工場が、彼がやっていた工場にも似てまして。作る工程とか、使ってる染料なんかも同じ。イタリア製のものを使ってて。その工場と出会って、染料の匂いをかいだ時、ピエロが導いてくれたような気がしたんですよね。
ほんとに小さな工場で、今でこそ4つくらいの工場を持ってるんですけど、ハンドメイドで、特異な雰囲気を持ってたんです。
しかもちょうどメンズに切り替えたかったところで、メンズの得意な工場でしたから、まあ、導きがあったのかなあと。

岩田
ピエロさんという方も、こういうカラフルな靴を?

山崎
いや、どっちかっていうと、土臭い。

(2人で倉庫へ。山崎さんがごそごそと奥の方から靴を取り出し…)

岩田
ああ、残ってるんですね。
山崎
残ってます。棄てられないんですよ、やっぱり。

岩田
ふーん。

山崎
これは、そのころのサンプル。展示会やるときのサンプルなんですけど。
こういう、クラフト感の強い、

岩田
うんうん。シボも

山崎
シボもあって。
今僕がやってるのとは違うんですけどね。
イタリアの南の人、ピエロみたいな人って、工場をやめなくちゃいけないってなったとしても、なんていうかな、生きてく知恵じゃないですけど、「もう終わりだ」ってならない。今ここにある材料、機械で、何ができるかっていう。あと基本的には、楽しくなければ仕事じゃないっていう。
かなりどん底までいったはずなんですけど、その悲壮感もない。お金がなくても、周りに、手元に、こんなに素晴らしいものがあるじゃないか、みたいな雰囲気があって。
そこは北の方、フィレンツェの人なんかとは雰囲気が、

岩田
違うんですね。
山崎
違うんです。
仕事が終わればキレイな海があって、おいしい食べ物があって、お酒を夜飲んで。それを3年間ぐらい、ずーっと通いながら体験してきたんです。
僕は日本人なんで、シシリア人にはなれないわけですけど、なんていうかな…。
日本ってどっちかっていうと、生活のために仕事があるみたいな感じですけど

岩田
可能性を制限して煮詰めていくようなライフスタイルが多いですよね。

山崎
まあ、そうですよね。
だから彼といろんな企画をしていると、まあ僕もそうなんですけど、いろんな突拍子もないところからアイデアを持ってくるんですよ。最初は彼が言ってることがわかんないんだけど、進めていくうちに「なるほどね」となってくる。逆に僕から提案することも一緒で。だんだん、そういうアイデアをカタチにしていく。言ってみれば、そのころに彼とやっていたことが、そういうトレーニングになってたと思うんです。
例えば、これなんかもそうで。コーヒーを飲んでた時に古着屋さんが近くにあって。で、行ってみたら軍パンがあったんですね。
そのころちょっとカモフラージュの素材を探してたんですけど、なかなかまあ、今、カモフラージュっていっても多いじゃないですか。
たまたま古着屋でこの軍パン見つけたときに、この柄いいなあと。これを靴にしたいけど、生地探すよりはこの軍パンを壊して、一足にしたら面白いだろうな、と。
今の工場でどこまでできるか、僕、わかるんで、工場に頼めばやってくれるだろう。このアイデアにのってくれるなって思って。
ピエロっていうのも、そういう発想を持ってる男だったんです。退屈なときも自分で遊びを作っちゃうような男だったんです。その明るさに僕は惚れて、ずっと通ってたわけですけど。

岩田
何歳で亡くなられたんですか?

山崎
42か、43か。

岩田
山崎さんよりちょっと年上?

山崎
そうですね。

岩田
山崎さんにとって、師匠みたいなものなのかな。心の師匠というか。

山崎
そうですね。師匠でもあり、友だちでもあり。
3、4年ぐらいの付き合いで、あっという間に消えてしまったのだけど、彼と同じ時間を過ごしたことが僕の今の子育ての仕方にも影響してるんですよね。こういうふうに一緒に遊ぼうとか。
こういう軍パンのような材料の見つけ方もそうですね。
僕が今、あまり型に囚われない考え方をするのもピエロの影響なんだと思います。無意識のうちに。