2月21日(土)つづき
午後1時。新地町の街道沿い。一軒家を改装した面白そうな蕎麦屋を見つける。小春日和という名前のお店で、中に入ると畳の大広間があって、田舎のおじいちゃん家へ遊びに来たような雰囲気。
天ざる蕎麦を注文。昭和そのままのボリューム感で出てくる。これがなかなか美味しい。落ち着く空間。みんなに「しゃちょう」と呼ばれる店主がまた素敵な人で、記念撮影を。
新地町「小春日和」のしゃちょうさん
新地町も国道が運命線だったようだ。国道より海岸側にある家屋は津波でさらわれた。スタッフのおばさんも家を失った。旧街道沿いは流されていない。昔の人が街道をそこに通した理由は、ちゃんとある。古くからの神社のあるところは昔から陸で、また古い道はそれに従うように形成されていった。新しい道だけが、歴史の記憶と断絶されてできあがる。
「震災後、町は元気を失った」と、しゃちょうが言う。若い子たちが戻ってこないのだ。新地町は福島県の北端で、このあたりにくると津波と原発のダブル被災地域である。
しゃちょうが「相馬港へ行ったらどうよ」と言う。

言われたとおりに相馬港へ。福島原発から40㎞。
海が見える。砂浜がある。奥では復興工事が大規模に行われている。間近には真新しい墓地が林立している。波打ち際では、母親と思われる女の人の周りで枯れ草や砂を掴んで子どもたちが遊んでいる。
放射能は目に見えない。砂は特に汚染されやすい。東京では、砂遊びを子どもに禁止する母親も多い。子どもはそんなことはわからないから、一方的に幼児期の貴重な体感を奪われることになる。
被曝することのリスクと、自然とダイレクトに接することを幼児期に阻まれたことによる心理的リスクと、果たしてどっちが大きいのだろう? 僕自身が子どもだったら、どう思うだろう? 子どもは外で遊びたいと思うだろう。甲状腺癌になってもいいから、そんなことはいいから、遊びたいと思うだろう。
相馬市 相馬港
相馬市 相馬港
相馬市 松浦湾
相馬市 松浦湾
福島で甚大な被害を蒙った松浦湾を抜け、南相馬の原ノ町(原町区)に入る。
今日もホテルは決めてない。スマホで調べ電話するが満室の宿が多い。
あとで知ったが、放射能除染員や復興工事従事者で震災後、宿はいつも満室傾向だそうである。
森の湯という宿にかろうじて滑り込み、午後5時、チェックインする。撮影した写真を部屋で整理したあと、街中に繰り出す。椿という小料理屋でやりいか刺し、ほっけの焼魚を肴にぬる燗を呑む。
「地元の魚ですか?」
「相馬の港はまだ漁業を開始してないから」と女将さん。
避難勧告が解け中学生以上の子どもたちは多少は戻ってきているが、それより幼い子どもたちはあまり戻ってこない。幼稚園や保育園のいくつかは休園したまま。
そんななか、震災で規模縮小していた相馬野馬追が復活し、今年の7月も行われる。原ノ町のいたるところに野馬追のポスターが貼られている。カウンターに座る地元のおじさんたちがその話で盛り上がっている。
震災後、相馬の馬たちは人間より過酷な運命をたどっている。放射能に汚染され食肉になる価値も否定され、たくさんの馬が餓死させられた。震災には人の物語もあるが、馬の物語が隠れている。養鶏場の鶏も無数の命が犠牲になった。
南相馬市 原ノ町
椿を出たあとはMARILYというスナックに行く。中野さんというマスターと仲良くなる。
中野さんは東京のシステムエンジニアだったけど、体験してみたいという思いで、ここ南相馬で昨年8月から除染員をやっている。そして夜はフィリピン人のママに任され、MARILYのマスターとして働いている。
ママは原ノ町にいないそうだ。中野さんによると、ここらのスナックや飲み屋街の客の8割は全国から集まった除染員だという。
「地元で循環する経済はもう原ノ町では崩壊してますよ」と中野さんは言う。「除染作業が終わったら本当のゴーストタウン化が進むんじゃないかな」という。
去年までは除染作業をする名目で関西系のヤクザが大挙して南相馬に入っていたそうだ。ヤクザたちはダミー会社を作っていた。除染の仕事をしていることにして、お金だけもらう。下っ端のヤクザたちは原ノ町の飲食店を昼から転々とし、みかじめ料を徴収するなどして荒らしていったという。
今日もここMARILYでは沖縄から除染員として来ているあっちゃんや、フィリピン出身で山形に済んでいるお姉さん、地元原ノ町のマサさんにと、コスモポリタンな空間ができている。僕も気がつくとヒートアップし、個々が持っている宝のような私的体験をみんなが共有できるようなメディアが作れないか、そんなことを熱く語る。
11時過ぎまで飲み、ホテルに帰着。大浴場で天国気分を味わったあと、寝る。
南相馬市 原ノ町