2月21日(土)
朝6時半起床。
7時にホテルの食堂で朝食。
このホテルの宿泊客はほとんどが震災復興の工事に従事している人たちで、7時も過ぎると食事を済ませ仕事に出ていく。大きな食堂で僕1人。食堂のおかみさんと話す。
ここで働いているスタッフさんたちはみんな被災者で、家を失ったり職を失ったりしている。おかみさんも家を全壊し、今は民間のアパートを「みなし仮設住宅」ということで、家賃0円、1年毎更新で仮住まいしているという。
生卵がおいしい。3日に1回しか生まれない貴重な卵だそうだ。米は地元宮城県産。
おかみさんは明るい人で、よく喋りかけてくる。でも震災の話になると、声を小さくする。ほかのスタッフに聴こえないようにしているらしい。震災のことは思い出したくない人もいるから、配慮している様子。

今日の石巻の最高気温は4度の予報。朝靄が一帯を覆い、空調ファンからこぼれる水が凍っている。
8時半、石巻アパートメントホテルを出発。
写真を撮りながら海岸線をドライブしていく。
東松島市 北上運河前
女川でピークに達した疲労感は薄れ、今日はテンションがあがり、ちょっと観光気分に。
昨日は動きすぎた。
全滅した東松島の海岸線を海へと向かって車を進めてみる。
たいていどこも、国道を大まかな境にして、それより海側は津波にさらわれ、それより内陸側は助かっている。
人がどこに道や鉄道を通すのかという視点に僕は興味がある。それは地理や街文化の無意識的な構造を反映している場合が多い。古くからの人間の足跡、交通網を掘り下げてみると、今ではそれが街における階層構造、風俗街や墓場の位置から、津波の運命を支配する構造線にまで繋がっていることがよくある。

航空自衛隊松島基地を横に見ながら、海へ向かって北上運河へと車を走らせる。
松島基地では28機の航空機すべてが津波で水没した。飛行機全28機を失っても隊員全員の命を守るという判断だったようだ。救難ヘリコプターは1機も飛ばすことができなかった。
結局、北上運河も海も見ることはできない。どこも工事中、海岸から1㎞ほどは侵入禁止で封鎖されている。
「あと2、3年はかかるんでねえか」と警備員のおじさんが言う。
7mの防波堤を作り、さらに運河を挟み、また数mの防波堤を作り、3段構造の防波堤工事を進めているのだという。
海の街なのに、もう海は見えない。
松島町
東松島を抜け、日本三名景の1つ、松島をちょっと観光。商店街はやられたようだが、津波の高さは比較的に低かったところで、島々はそのままの偉容である。That’s水墨画の世界だ。

塩竈、多賀城、仙台を抜け南へ。
名取市を超えたあたりでナビの指示に逆らい国道を逸れ、海岸部に向かって走り出したところで衝撃を受ける。
一面の原っぱ。なにもない。
ここから死の世界は延々と続いていく。
山元町
山元町
亘理町
山元町
山元町
ナビを見ながら気付く。どうやら今走っている道路と並行するように右手に常磐線鉄道が走っている。でも、右を見ても見えない。茶けた草に埋もれ廃線となった常磐線は、ずっと僕の間近にありながら存在を消していたのである。

車を停め、坂元駅跡に立ってみた。
実は僕は以前、ここに来ている。常磐線の普通電車に乗って9年前、仙台まで1人旅をしたことがある。
今日、僕が南相馬の原ノ町を目指しているのも、9年前に駅で会って話した高校生たちのことを思い出したからだ。ヤンキーみたいなぶかぶかの学生服を着た高校生たちは妙に人懐っこかった。
南相馬に限らず、茨城から福島の海側にたむろする高校生たちには、当時そういう匂いが連なるようにあったのを思い出す。首都圏のオシャレな都会っ子は昔から、茨城、そしてこの地域へと繋がる常磐のヤンキーをバカにしてきたけど、僕はそういう高校生に、土地と根付くなかで自分で感覚を捉まえようとしている、そんな人の匂いをかぐところがあり、昔から一方的にシンパシーを感じてきた。
そんな彼らへの興味も重なって、20代のころ、1人でちい散歩みたいなことをしながら常磐線沿線の駅々を途中下車しながら歩いていたことがあった。僕は地井武男さんがちい散歩を始めるより前に、ちい散歩マニアだったのである。
だから廃墟となった坂元駅の姿を見ながら、そこに花が活けてあるのを見ながら、9年前のことが思い出され、やっぱり涙ぐんでしまった。
山元町 坂元駅跡
すぐ近くには巨大な廃墟小学校、中浜小がある。そこも寄ってみた。
海からわずか300メートル。津波到達予想時刻は10分後とアナウンスされた。避難所に行く時間はなかった。子どもたちは全員屋根裏に駆け上がった。そして津波が襲ってきた。
第1波は校舎の土台を濡らした。第2波は、ガラスや壁を打ち砕くけたたましい音とともに2階に届いた。そして、第3波がやってきた。
それは第2波の倍以上という巨大な波だった。「終わりだ」という声がした。屋上もまるごと飲み込まれるに違いなかった。ところが、第2波の引き波とぶつかった。波が小さくなった。奇跡のようでもあった。
それでも津波は2階の天井下まで達し、水しぶきは屋上を濡らした。
石巻の大川小では職員、児童、ほとんどの命が失われた。おそらく運命の紙一重の場所で。そしてここ中浜小では全員の命が、紙一重で守られたのだ。

校門をくぐり、校庭に立ってみた。震災前は高さ6.2メートルの防波堤が目の前にあったらしい。今はわずかに瓦礫が積んであるだけで、海を見ることができる。
山元町 中浜小跡
9年前、僕は常磐線に揺られながら、東の果てから朝陽が昇るさまを見て息を呑んだ。でも今は、海は、ところどころ顔を見せるだけである。

中浜小も、石巻の大川小も、すでに集落自体が崩壊し地区全体が死の原っぱになってしまっている。だから、廃墟もそのまま剥き出しになっている。逆に石巻の市街地にある門脇小跡地などは、まだ周囲に人が住んでいる。だから、目隠しをして中の机や椅子を見えないようにしてある。PTSDに陥った人たちに3.11を想起させないようにする配慮なのだという。