「生業」という言葉の重み
中井政義さん。震災で、家と仕事を失いました。2015年現在、宮城県東松島市の民間アパートを「みなし仮設住宅」にして住んでいます。
震災後、講演、そして被災地ガイド活動を始めました。それは家も仕事も失った中井さんにとって、風化させないためのメッセージであり、同時に、収入を得るための生業です。
僕はそんな中井さんの活動を知り、ぜひ会いたいと思いました。震災体験を生活費に繋げていく。人間が生きることの真実がここにあると思ったのです。
そして僕は、中井さんがいるからという理由で、今回の旅先を石巻に決めました。
すべての人に耳を傾けてほしい話がここにある。僕はそう思っています。
岩田 和憲
中井 政義(なかい まさよし)さんのプロフィール

一般社団法人防災プロジェクト代表理事。
1964年、青森県八戸市出身。
生後3カ月で宮城県石巻市に移り、以降、石巻・東松島の両市で育つ。
販促のコンサルタントをしていたが、2011年の東日本大震災で自宅、事務所、仕事機材、すべて失う。
震災発生から約45日目、被災地の現状を伝えるためブログを通して情報発信をスタート。これが話題となり、以降、「風化させない」をキーワードに、講演活動をはじめ、語り部としての現地ガイド、黄色い安否ハンカチプロジェクトなどを展開している。
東松島市
岩田
中井さんは震災で、どんな被害を受けられましたか?

中井 政義(以下、中井)
東松島の大曲浜地区なんですけど、家は全壊ですね。住むところがないですね。家族は無事でした。
今はみなし仮設っていって、アパートや一般住宅を仮設にできるんですけど、そういったところに。無料ですね。1年ずつ延長で更新してって。
細かい話をするとね、一晩ぐらいかかるんですよ。まずもってみなし仮設っていう制度を知らなかったので、4、50万円を損したんですね。
被災しました。家族が不憫です。避難所から出たいです。で、自分でアパートを借ります。借りました。家電買いました。
全部、損しました。必要なかったんです。ぜんぶ支給されるんで。
最初から知っていればということです。いかに被災者が制度を知らないあまり無駄な出費をしているか。そういうことを話し出すと、たくさんありすぎて。
石巻市・北上川
岩田
震災後、みなさんの生活や収入はどんな状況なんでしょうか?

中井
いろいろあるんですよ。裕福になった方もあるし。貧乏してる人もいる。
土建屋さんとか、仕事柄、会社に仕事がどかどかきているっていうのもあります。
被災地では、二極化してる。

岩田
二極化の動きは、今も進む一方ですか?

中井
進みっぱなしですね。
まあ仕事があればいいですけど。もとの仕事に就けなかったり、会社自体の売り上げがさがって、給料払えないところがたくさんありますし。
水産業でいえば、石巻はまだ半分しか戻ってきてないですけど、戻ってきてもそこに風評被害とかありますし。働いている方も、給料が減ってますね。
そういった意味では、震災前には簡単には戻らない。一度壊れたものは、なかなかね。地域のコミュニティーにしろ経済にしろ、簡単には戻らないですね。
石巻市
ですから、生活はできているかといっても、やっぱりいろいろあるんですよ。個人なのか会社なのか、年金暮らしの方はどうなんだ、とか。
歳とられた方は、基本的には給料がなくて、少ない年金での生活ですから。今までは自宅暮らしで家賃かかりませんでした。でも家を失いました。
この裏にすぐ災害公営住宅があるんですけど、入った途端、家賃が発生するんですね。今まで家賃かからなかった人、例えば年金8万円で生活してた人がいる。でも災害公営住宅入ると、仮設住宅を出た途端、家賃3万円、4万円払っていかないと。80歳でも、90歳でも、100歳の方でも。当然、収入はないです。年金は増えないです。
そういう方もいれば、税金払うの大変なくらい仕事が増えた人もいる。
ですから、被災地のみなさんの生活はどうかと訊かれても、1人1人違うんです。
報道が難しいのは、1人1人を報道はできないですね。ひっくるめての被災地になってしまうんで。だから報道は当たり障りのない、ごくありそうな話になってしまうんですね。
石巻市・大川小跡地
岩田
例えば、震災前よりこういう面に関しては前より発展したんじゃないか、そういう部分はありますでしょうか?

中井
やっぱり街を再生させたいっていう意識は強いので、そういった意味では、いろんな団体とか組織とかありますけど、団結力はできた。ただ目的が達成できているかどうかっていうのはまた別なんですけど、やろうとしている動きはありますね。
あの、これは地域性ですけど、石巻はほんとに協力性がない地域だと昔から言われてて…。妬み合い、足の引っ張り合い、人の成功をよく思わない…

岩田
僕の生まれの岐阜でも、まったく同じこといわれてますよ(笑)。
石巻市・大川小跡地
中井
そうなんですね。石巻もそんなことを、地域の人間が自分たちで言ってるくらいで。
それが震災後に組織作って、合同会社作って、一致団結して。
それはびっくりしましたね。やっぱりやるときはやるんだな、って。

岩田
今日はぐるっと東松島、石巻、女川と回ってきまして。海沿いという海沿いがぜんぶ工事、どこもかしこも土と泥の世界でした。
来るまでは僕の中では、あるところはもう工事も完成して復興が終わってる、そういうイメージだったんですけど、だいたい満遍なく中途経過みたいになってて。

中井
そうですね。時間かかりますよ、やっぱりね。気が遠くなる。
ずっと見てますけど。あんまり変わらないですよね。

岩田
道路も埃っぽいじゃないですか。泥が乾燥して、トラックがひっきりなしに行き交い。

中井
われわれにはもう、当たり前の世界になりましたけどね。
石巻市・大川小跡地前
岩田
塩竃、松島のほうからずっと来て、新しくできた建物もちらほらあるんですけど、パチンコ屋だったり、ドンキホーテだったり。
なんというか、地元のお店が新しくっていうよりは、外からの資本が新しい箱モノを作ってるように見えて。

中井
ようするに、被災地マネーっていって、被災地にはおカネがたくさんあるんで、外から大型資本の店舗がやってくるんです。
さっきもお話ししましたが、被災地では二極化してる。ほんとに困ってる人がいる一方で、おカネがどんどん入ってくる人がいる。そういうお金が入った人に向けて、パチンコ屋が増えてますし。
これから家が建つわけだから住宅のチラシはあたりまえなんですけど、パチンコとか、ファッションとか、娯楽系のチラシが、震災前より2倍、3倍に増えてるんです。
東松島市
岩田
なんでパチンコが栄えるんでしょうか?

中井
お金があるからですよ。
要するに、稼いだお金じゃない。悲しい話ですけど、家族を亡くし、国とか生命保険会社とか、そういったところからお金が突然入ってきた人がいるわけです。お見舞金とか保険金、義援金なんかが、突然。
住宅被害がゼロでも、運よく罹災証明が出た方もいるんです。半壊の認定を受けて、全壊した方の半額の義援金を手にした。
罹災証明は行政がチェックして発行するものなんで、当事者が悪いとかではないんです。住宅被害がないのに口座に突然お金が振り込まれる。「棚ぼた」と言っている人もいます。食器が割れただけで80万もらっているとか。そういう話も聞きます。
全員が該当するわけではないですよ、こういう話は。でも被災地にはお金がドンドン集まっている。それは事実です。
仙台なんか、ほんとうのバブル期よりバブルです。ロレックスがばんばん売れてる時期があったんですから。

岩田
中井さんは会社も流されたんですよね?

中井
自宅兼事務所です。
女川町
岩田
仕事内容は、震災後、変えられました?

中井
変えました。

岩田
もう前の仕事はできないっていう状態?

中井
そうですね。データがすべてなくなったので。
あと、今はだいぶたったのであれですけど、当時の心境は、やっぱりこれだけの災害を体験すると、普通にやってる仕事がほんとにちっぽけなものに感じて。
自分が前やってたコンサルティングの仕事っていうのは、代わりがごまんといるんで、震災後は、もう自分がやる必要はないなと思った。
それで、自分しかできないことをやろう、って。これはホントに思いました。

岩田
それが、現地ガイドの語り部と、講演会と。
石巻市
中井
そうですね。

岩田
それはまさに仕事としてやられてるところがある、ということですね。

中井
仕事です。生業です。これはもうずっと継続してるんで、2011年からずっとやってます。やらせてもらってます。先週で、講演は79回ですかね。

岩田
全国各地ですね?

中井
はい。

岩田
述べ1万4,000人。

中井
ぐらいになりましたね。
女川町
岩田
さっきもちょっと話されたと思うんですけど、その仕事を、なぜ自分にしかできない、って思われたのですか。

中井
簡単に言いますと、あまりにも早く風化したんです。われわれ被災地の人間っていまだに悔しさと憤りがあるんです。
震災一カ月後でだいぶ風化して、ほとんど報道がなくなりました。全国的な報道が。地元は別です。
でもこのあたりだと、震災後一カ月は電気も水道も止まってたんです。場所によってはもっと続くんですけど。で、自分たちは一カ月くらいしてはじめてテレビを見た。皆さんが見た悲惨な映像って、われわれ、逆に見てなくて。
われわれは何が起きたかわからない状態で一カ月暮らしてたんです。
それで、これだけの震災ですよ、日本最大級の。われわれとしては、報道は震災一色だろうと思うわけです。なぜかというと、一カ月では、現場は何も変わってない。瓦礫の山があり、死体が中に埋まってる状態で。
ところがテレビをつければ、平和な世界ですよ。何もなかったかのように進んでる。
女川町
その時点ですでに報道は、被災地の笑顔とか、いわゆる、いいものを撮ろうとしてるんです。臭いものは隠して。僕らは怒るわけです。「こっちも現実だから撮ってくれよ」と。でも実際に映し出されてたのは、復興という言葉だったんです。一カ月で。
でもここにいればわかるんです。「何をもって復興って言うの?」と。「そんな簡単に済ませるなよ」っていう怒り。
でも全国の人はテレビに映ったものを見るから、みんな勘違いするんですよ。現場のことは知られないですよね。
そうなると、行かなきゃわからない。とにかく自分で行け、行けばわかる。自分で見て来い、と。当時ボランティアやってたとき、そんなこと言ってました。テレビで判断するなと。
ギャップですね。現実と、テレビに映し出される報道とのギャップですね。
だから自分でデジカメ買いました、それで、どんどん現実を写真で撮っていって、ブログにアップしてったんですよ。
それを見た方が、びっくりしたんです。「まだこんな状況なんですか」って。当時は毎日3000アクセスくらいあった。それが最初ですね。
そのときの自分を動かしたのは、憤りですね。でなきゃやらないです。商売でやってるわけじゃないですね。悔しさがエネルギーだった。
東松島市
岩田
それを生業に繋げていかれたわけですね。

中井
そうです。
自宅が流されて、仕事がどんどんなくなっていくわけでしょ。なにもなくて。明日からなにやって食べよう。地域もお客さんも壊滅しちゃってるわけですよ。インターネットも繋がらないですよ。
そのとき自分のなかで思ったのは、じゃあ最低でも、家を取り戻そうと。自分でなんとかしようと。で、思いついたのは、震災前は販促の仕事をやってて、セミナーを5、6回やってたんです。喋ることにかんしては商売でやってた。喋ることは元手がかからない、っていう発想ですね。
で、思いました。じゃあオレ、何で生きるかと。
石巻駅前
当時、47歳です。じゃあ、あと20年、30年生きるだろうと。で、話すことをずっと続けていけば、おそらく、話すだけでも、例えば年間100万稼げれば、20年で2000万になる。だったら家ぐらい買えるんじゃないかっていうふうに思った。健康であれば。
すぐは建たないけども、途中でローン組めるようになれば、あとは支払うだけじゃないですか。健康であれば、ずっと話していけば。そう思ったんですよ。
それが自分のエネルギーなんです。やればなんとかなる。
それで、最初はブログで、「こういう状況です」と写真を上げてって、5月くらいから、「もし、講演あれば行きますので」と書き始めたんです。それを見た福岡県飯塚市の青年会議所の人が、講師を探してまして。声がかかったんです。
自分はマーケティングやってたんで、実は、ちょっと仕掛けがあったんです。というのは、阪神淡路大震災も新潟中越地震も意外と早く風化したんですね。それを逆手にとって、「風化させない」っていう言葉をブログのキーワードとして使ったんですよ。それで、検索1位にくる。だから風化させたくない人が、くるわけですよ。
そういう人たちから講演の依頼がうわーっとくるようになった。