2月14日(土)
家で1人遅い夕飯を食べていたら、カミさんが「旅行でも行ってきたら」と言う。
「1人で?」
どうしてカミさんが急にそんなことを言い出したのか、それを思うと複雑な気もしたが、とにかく一晩寝て、朝起きたら、東北へ行きたいと思った。
9年ぶりに、1人旅でもしたいと思った。そういえば9年前も東北だった。
仙台行きの東北新幹線から。
2月16日(月)
同僚に話し、木、金、土と3連休をもらうことに。
会社帰りに、石巻で震災の語り部活動をしている中井さんに電話する。
とにかく、これは個人的な旅なんだけど、意図はパブリックなものです。ぜひお会いしたいです。
雑然とした口吻で伝わってるのかもわからないまま、勝手に電話し、勝手に話していた。
そしたら「お会いしましょう」と。金曜日にお会いできることに。ありがたい。

家に帰り、「旅に行く」とカミさんに伝える。
「うん。行っておいで。どこ行くの?」
「被災地に」
どうやら本当は、温泉にでも行ってリフレッシュしてきたら。そういうつもりで彼女は言ったみたいだった。ところが僕は被災地へ行くと言い出している。
そんなところに行ったら、どうせまた考えて苦しむに決まっている。あんたは休んだ方がいいんです。カミさん、苦笑いだ。
でも後日、東北へ行ったことが大きな意味を持つ。その予感だけで僕は動こうとしている。
仙台行きの東北新幹線から。
2月18日(水)
そういうわけで1日も早く行きたい気分なのだが、明日は抜けられない仕事が入ってしまう。というか、僕がすっかり忘れていたのだが。
1日ずらして金、土、日の日程で東北へ行くことに。
中井さんに細かい日時や趣旨を書いたメールを送信。
目的地は石巻。余裕があったら南相馬にも行こうと決める。
2月19日(木)
中井さんからの返信が届く。万事OKとのこと。
2月20日(金)
朝5時半、起床。カミさんに駅まで送ってもらう。
7時半、東北新幹線に乗って東京駅を出発。
宇都宮を超えたあたりで、雰囲気がだんだん変わっていく。
10時、仙台駅に到着。
駅裏のレンタカー屋に予約なしで飛び込む。1台だけ空いている車があったのでそれを借りる。
僕にとっては9年ぶりの仙台。でも今回はただ通過するのみ。
国道45号線を多賀城へ抜け、そして塩竈、松島と進みながら、目的の石巻へ向かう。
塩竈市北浜地区
今晩泊まる宿も決めていない。地図も持ってきていない。そのほうが予想もしないことが起きて、いろんなことを僕に考えさせてくれる。僕はこういう譜面のない旅が好きである。

今日から被災地を巡るわけだが、実は旅というのは、死と深い関係がある。
網野善彦さんによると、室町時代の中頃までは、旅人が葬儀を取り扱っていた。そして彼らは先々で踊りを披露した。旅には、死とダンスが繋がる。
旅人は土地に根付かないため、死を取り扱うことができる。一方で、死と密接な存在であるがゆえに、室町も後期を迎えると差別の対象になっていく。そして江戸の身分制度へと繋がっていく。そんな悲しい歴史がある。

旅が単なる物見遊山ではなく、今より大胆で、死と結びついていた時代。そういう旅への憧れが僕にはある。
なんでこんなことを書くのかというと、それはまた僕にとって、3.11という出来事にかすかに繋がってくるからである。
松島町
あの日から、何人もの日本人の胸の奥に、生きることの現実が舞い降りた。たくさんの人が死と向き合う場所に立たされた。
それは別に東北にかぎらない。カミさんの実家の兵庫県では今も、阪神淡路大震災以前と以後、という区切りになっている。
生き直しの人生、それは譜面のない旅のように進んでいる。これまでの人生と違うのは、そこに死の感覚があることだ。
その体験の厚みが、東北にいつか踊りを生みだす。それを僕は見てみたい。

国道はどこもゆるい渋滞が続いている。
正午過ぎ、ようやく石巻市に到着。
復興ふれあい商店街というプレハブ商店街を見つけたので、入ってみる。
復興ふれあい商店街
昼飯を食べようと思い、mという店に入る。
カウンター席と、テーブル席が2つの小さな喫茶店。ママさんが1人で切り盛りしている。家賃0円のチャレンジショップ。以前より自分の店を持ってみたいと思っていたところに、震災によって家が壊れ、それをきっかけにして応募に踏み切ったそうだ。
トマトツナのパスタを注文する。美味しい。ママさんは、家を半壊し車を失った。旦那さんは津波を逃れ山に入ったところで交通を絶たれ、2晩、焚火で野宿して子どもたちと一緒に生き延びた。そんな話を明るい口調で話してくれる。
喫茶店m
3月の東北で2晩野宿して生き延びる。それがどれほどの体験なのか僕にはわからない。ただ石巻に来てわかったのは、「人はモノがなくても生きられる」ということを語る人が何人もいたことである。津波で今までの生活を失ったことで、わかってくるのだという。

ママさんが大川のほうの出身だというので、大川小へ行ってみようと思い、車で移動する。
大川地区は石巻でもいちばん東の外れ。北上川沿いの堤防道路を快調に走っていく。河岸はどこも工事をしている。トラックがひっきりなしに行き交い土埃が舞っている。
とある信号交差点で停車し、青になったところで車を前に進ませる。おもむろに、だだっ広い原っぱが現れた。大川小学校跡地だった。
一段低い土地にあり、交差点の勾配で見えなかったのである。
何もない。かつてここに集落があったのだという。
大川小学校跡地
その日学校にいた児童108人のうち74人が亡くなった。先生も11人中10人が亡くなった。
廃墟は、現代美術のオブジェのように見える。破壊され、かえってものの本質が剥き出しになっている。
壁は打ち破られ、天井は崩れ落ち、コンクリートも鉄筋も折れ曲がっている。
壁画があり、その上に「未来を拓く」と書かれている。
平日にもかかわらず何人もひっきりなしにやってきて花を捧げている。
風が強く目に砂が入る。献花された造花が並び、枯れることなく色めいている。

メディアでは「震災を忘れない」と言う。
ところが地元の人に訊くと、「忘れない」などと言えるのは余所の人で、震災は現在進行形だという。海岸部は今も土と泥の世界が延々と続いている。
破壊された国道沿いに新しくできた建物は、パチンコ屋にドンキホーテ、コンビニ。
巨大資本が進出し、地元の土地は売られ、郷土の匂いは消失に向かっている。

大川小を離れ、女川にも寄るが、ここもまた街が消えていた。
女川は高さ17.6m、東北沿岸部でもいちばん高い津波に襲われた町である。
女川港
女川町鷲神浜
地元の新聞社が、地元のデザイナーたちに呼びかける。被災した女川で、地元の商店をPRするポスターを作ろうと。出来上がったポスターには、女川の笑顔があふれている。その裏には今もそのまま、土と泥の世界の現実がある。
明るいポスター展の開催はそういう事実の強さを裏で語っているように見える。

結局、牡鹿半島の付け根をぐるっと回った恰好になり、ふたたび石巻市街地に戻ってくる。駅裏に石巻アパートメントホテルという建物を見つける。午後4時、チェックイン。
アパートをそのままホテルとして使っている。
食堂のおかみさんと話しているうちにわかったのだが、ここは復興の工事をしに全国から来ている土建屋さんたち御用達のホテルだそうだ。復興が終わった暁には土建屋さんたちも帰っていく。そのとき、ホテルとしての業務は終了し、建物はアパートに転用されるのだという。
スタッフには全員、家や職を失った被災者を雇っている。
下調べなしで入ったホテルが、なぜかこんなふうに震災と深い縁を持っていたりする。
石巻市 旧北上川
朝からずっと移動し車で走り続け、土と泥の世界ばかり見ている。
さすがに疲労を感じ、1時間ほどベッドで横になる。
そしてふたたび車に乗る。
中井さんに話を聞きに行くために、今度は東松島に向かう。