津波がさらった南相馬の小高地区。橋につづく道は消えていました。(2015/2/22)
石巻の大川小学校跡地。その日学校にいた児童・先生、119人のうち84人が亡くなりました。街自体が消失したままです。(2015/2/20)
東北沿岸部の道路はどこもひっきりなしに工事のトラックが行き交う土埃の世界でした。石巻の大川小学校跡前。(2015/2/20)
松島の景色。ここだけは、美しかった... まるで水墨画のようでした。(2015/2/21)
破壊された家の門前に、石灯籠と動物型の小さな植物だけが、新しく置かれていました。山元町にて。(2015/2/21)
土砂に埋まった墓地。このすぐ前に、新しい墓地が作られていました。山元町にて。(2015/2/21)
全校児童数59人、欠席者0...。津波にさらわれた後に、誰かが思い出して書いたのでしょうか? 山元町、中浜小学校跡にて。(2015/2/21)
福島原発から40km地点、漁業再開の目途が立たない相馬港にて。(2015/2/21)
何もない荒地が広がる中、鳥の姿だけはよく見ました。南相馬にて。(2015/2/22)
海岸部では津波で流された車の4年後の姿が、ちらほら見られます。南相馬にて。(2015/2/22)
福島原発から15km地点にある白鳥の飛来地。南相馬、小高地区にて。(2015/2/22)
福島原発から10km圏内。浪江町の入口に立つ廃墟ボウリング場。(2015/2/22)
家は倒壊したまま。国道以外は町全域がバリケードで封鎖された浪江町では、帰ることも取り壊すこともできない状態です。(2015/2/22)
復興したいという、熱い気持ち...。山元町にて。(2015/2/22)
南相馬の小高地区は、津波と原発、両方の被害を受けました。(2015/2/22)
地平線は新しくできた白い堤防。海の見えない海岸線が続きます。山元町にて。(2015/2/21)
1年半前、四ツ谷の「ロン」という喫茶店で、大川小学校の慰霊碑除幕式の記事を僕はたまたま目にした。1人ソファーに腰掛け、新聞を拡げ、何となしに読み始めたのだが、無性に涙がこぼれた。

3月11日のことは今もよく憶えている。地震が起きたあと職場は解散となり、みんなと同じように、僕も20キロ先の家まで歩いて帰った。夜8時、家につくなりテレビをつけた。気仙沼の街が燃えていた。涙がぼろぼろと溢れてきた。ところがしばらくすると、テレビは東京の帰宅困難者のニュースに切り替えられた。首都圏の交通マヒが一大事として繰り返し騒ぎ立てられた。
違和感を感じた。
気仙沼の被害と、東京の被害とでは、次元が違っていた。考えてもみれば、20㎞、40㎞の道のりというのは、江戸時代なら旅人が歩いた1日の移動距離である。気仙沼が燃えるさなかに、東京の帰宅困難を騒ぎ立てる感情が僕にはわからなかった。
そして計画停電のニュースが始まった。
東京ローカルの、1日数時間ばかりの小さな我慢が全国ニュースだった。視点の中心は、東京の資本経済だった。東北では断水、停電が続き、テレビすら見られないはずだが。
これらのロジックは、原発に象徴されるように、東北にしわ寄せするかたちで成立していた。それが震災を契機に浮き彫りになっていった。

僕が3月11日に今も引きずられる理由は、単に震災という話に収まらない、人間のあり方を含んだ難問がそこに凝縮していると感じるからである。
人はもっと東北を、そして人間が生きるという、本当のロジックを知るべきじゃないだろうか?
だから僕はこの件については、体が震える。
「そんなにイワタさん、地震が怖かったんですか?」
当時はそんなことを何人かに言われた。でも、そういうことではない。
僕は自分のことでは泣かない。人が人についての想像力を失っていくことが寂しい。そのために零れ落ち死んでいった人たちがいるわけで、その人たちのことを自分に照らして想像するから、体が震えるのである。

今回の旅で、僕が長らく抱いてきたこうした思いに、いろいろな現実が繋がっていった。
震災バブルとヤクザの侵入で、人と街はぼろぼろになっている。南相馬の中野さんは僕にそう教えてくれた。復興というイメージはメディアが作り上げたシナリオなのだと、東松島の中井さんは僕に教えてくれた。震災から数カ月もすると、まだ何も済んでいないというのに、復興の笑顔ばかりがメディアのシナリオ通りにばら撒かれていった。でも現実は、4年が過ぎようとしている今も、東北は土と泥と瓦礫の世界で、とりわけ東京オリンピックの開催が決まってからは目に見えて復興の速度は落ちている。

僕はそういう事実を、日記、写真、インタビュー、いろんな手法を使って、伝えたいと思う。伝えなきゃいけないと思う。それこそが、仕事なのだと思う。
6回の連載で東北の今を記録します。
2015/3/1 岩田和憲